人格障害は排除の烙印だ 学会は人格障害概念を破棄しろ

= 人格障害は排除の烙印だ 学会は人格障害概念を破棄しろ=

<人格障害概念はいかに機能しているか>

 人格障害とは何だろうか? 人格のゆがみとか偏りとかいわれているものであり、
その定義からいって客観性はなく歴史的政治的概念であり、精神病質概念同様に排除の烙印として機能している。日常語でいえば「嫌な奴」
「付き合いたくない奴」「厄介者」となるが、これに「科学的」粉飾を付け加えたのが人格障害概念である。

 この概念は社会的問題を、個人の人格、資質の問題にすり替え、その個人の排除を合理化したり、
個人の人格矯正によって問題解決しようとする概念である。

 たとえばDSMにおいて、家庭内暴力の被害者女性に対してマゾヒズム人格障害のラベリングがされ、
被害者は無意識のうちの暴行を楽しんでいる人格であり、家庭内暴力を男にさせているのは被害者本人であるとされた。
フェミニストの激しい抗議の中でようやくこの概念はDSMから撤回されたが、
その後代わって自己敗北型人格障害という概念が持ち出されDSMの付録として生き残っている。
これらの概念がむき出しの性差別から導かれた概念であることは明らかである。

 あるいは境界例人格障害という概念がある。この概念は一言でいえば精神科医が「嫌な奴」「付き合いきれない奴」
という言葉の代わりに使うものであり、いったんこのラベリングをされると、患者の言葉は全て嘘ということになる。
アメリカでは精神科医によって強姦されたと訴える女性患者がいれば、境界例人格障害とされる。そして彼女の言葉は全て嘘ということになる。
精神科医によれば、精神科医を訴えること自体が境界例人格障害である証拠であり、
そして境界例人格障害である以上患者のいうことはすべて嘘なのだ。仮に性的関係が両者にあったとしても、それは境界例人格障害の患者が、
人格障害ゆえに精神科医を誘惑したのだ、ということになる。見事な循環論理であり精神科医を防衛するには何と便利な概念であろう。

 人格障害概念がいかに主観的であり、社会的差別を反映した概念であるかこれらの例だけでも明白である。
診断とはそれを付けられた患者本人の症状を理解し苦痛をいやすために正しい治療方針を出すことを目的としているはずである。
ところが人格障害という診断名は、本人の利益には一切ならず、むしろその診断名を付けられた人間を非難し、人としての一切の信用を奪い、
社会生活を不可能にする烙印として機能している。

<保安処分と人格障害概念>

 人格障害概念が排除の合理化や問題のすり替えのための概念として機能していることは、単に概念を誤って拡大したり、
誤って適応しているのであり、概念自体の問題点ではないと主張する精神科医もいるかもしれない。
しかし当学会総会の人格障害に関するシンポジウムのシンポジストである牛島定信医師は、週刊誌において事件の犯人とされた人たちに対し、
人格障害概念を適用しコメントしている(裏面コピー参照)。京都の小学生殺害事件、
新潟の少女監禁事件の容疑者について牛島定信医師は以下のようにコメントする「共通するのは、
悪性自己愛人格障害という重症型の人格障害だったこと」。「現在、こうした悪性自己愛人格障害が、かなりの勢いで増えています。
昨年の池袋の通り魔事件の容疑者も、下関の刺殺事件も、共通の人格障害と考えられています」。牛島の論理では、容疑者は人格障害であり、
これらの犯罪は人格障害が原因である、ということになる。さらには人格障害(この場合は悪性自己愛人格障害)
とされた人間は非常に危険で何をするか分からない犯罪予備軍ということになる。
牛島医師の患者で人格障害とされている人たちはこの記事を読んでどう思うだろうか?
 そして自己愛人格障害とラベリングされた人たちは今後どうこの社会で生きていけるというのか?
 明らかに牛島医師の論理の下では人格障害というラベリングは排除の烙印として機能している。
この牛島医師の論理こそが人格障害概念の本質なのだ。現実に刑事法廷では、人格障害のラベリングは健常者に比べ「危険で再犯しやすい」
人間である、という烙印として機能し、重罰の根拠となる。

 保安処分とは何か? 犯罪行為違法行為の原因をひたすら個人の資質、病状に求め、それゆえ「危険性」を要件として予防拘禁し、
強制医療をもって個人の人格を矯正しようとするものである。牛島医師の論理に見られるように、人格障害概念はかつての精神病質概念同様、
この保安処分の中核となる概念であり、保安処分という予防拘禁と強制医療を正当化合理化する概念である。
しかもこの概念は前述したように客観性は一切なく政治的社会的概念であり、誰にでもラベリングできる概念である。
事件を起こしたとされた人間誰にでも人格障害のレッテルを貼ることが可能である。

<人格障害概念の廃棄を>

 人格とは何か? 人格の障害とは何か? これらの質問に科学的客観的な答えはあり得ない。
こうしたことに精神医療は手を出してはならない。しかも本人の利益に一切ならないラベリングを患者にすることは医療のすることではない。
医療は本人の苦痛をいやし、本人は生き延びることに奉仕するべきである。犯罪の防止と治安に奉仕するために、
人を排除し予防拘禁するための概念である人格障害概念を精神医学・精神医療は放逐しなければならない。

 私たちは日本精神神経学会に対し人格障害の概念否定に向け討論を開始することを要請する。  

2000年5月9日

  全国「精神病」者集団



コメント

コメントする

コメントを投稿するには、ログイン する必要があります。