2011年5月 全国「精神病」者集団ニュース抜粋

ごあいさつ

このたびの震災に遭われました皆さまには、心よりお見舞いを申し上げます。大変な状況でございますが、一日も早い復興を祈っております。

私は、3月11日、院内集会のため上京(東上)していたため、交通が寸断されたことで、自宅(青森)に帰れなくなるという事態になりました。飛行機のチケットも殺到しており、6日後の予約となりました。

一方で、国会の会期が延びに伸び、既に半年になろうとしています。震災のドサクサに紛れて、共謀罪であるコンピューター監視法が上程されています。また、村木厚子元局長の冤罪事件の裁判(特捜検の責任を追及する裁判)も、メディアでは、取り上げられることがなくなりました。

この時期だからこそ、やらなければならないことがあると思います。ただ、私たちは、決して、「がんばろう!日本!」という安易な方向に流されることはせず、冷静に情勢を見見極めて動いていければと思っています。(桐原)

 

 

 

◆被災地から(時代は変わる)

宮城精神しょうがい者団体連絡会議(宮精連) 山本潔

僕はその時、近所のスーパー駐車場にある銀行ATMで幾ばくかの現金を下ろし、車に戻ったところだった。突然、(地震多発地帯に居住する住人としても)今までに経験したことのない強烈で長い長い揺れに見舞われた。車は突然ダンスを踊りだし、僕の出来ることは、サイドブレーキを引き、ハンドルを力いっぱい握り締めることだけだった。周りの建物や木々、電柱などは異様な音を立ててグニャグニャに揺れている。スーパーからは、買い物客も店員も駐車場に転げ出てきて、地面にしゃがみこんでいる。地面には地割れが走り、隣接する信号機は消えた。何故か僕はカーラジオのニュースを聴くことを忘れ、代わりにボブ・ディランのCDが鳴っていた。♪The time they are a changingお馴染みの「時代は変わる」だ。あれから2ヶ月経つが、このフレーズはその後、幾度も僕の頭のなかをリフレインすることになる。

その日から、電気・ガス・水道・電話やネットなどの通信手段・ガソリンなどの移動手段・灯油などの暖房手段など、ライフラインが完全に断たれた。最後にガスが復旧するまで、約1ヶ月の耐乏サバイバル生活だった。カネは役に立たなかった。大小問わず商店は店を開けることが出来なかったからだ。

しかし、小さな変化があった。僕らの住む団地は高齢化が進む古い公営団地で、お年寄り・障害者・年金生活者などが多い貧乏人の巣窟?だが、普段、会釈ぐらいしか交わさなかった隣人たちによる「助け合い」が始まったのである。近くの小学校に給水所が出来たが、足の弱いお年寄りにとって、何リットルもの重い水を運ぶのは不可能だ。この貴重な水をお年寄りに運んでくれる人々が現れた。お年寄りはそんな人に心底感謝してこれまた貴重な食料を「お返し」する。翌日も水はお年寄りに届けられる。お年寄りはまた若干の食料をお返しする。互酬の復権だ。自然発生的に非資本主義的コミュニティーが甦ったのだ。♪The time they are a changing

津波で家を流され避難所暮らしをする友人を訪ねた時、彼は言った。「野次馬でも何でも、とにかく被災地を見て欲しい。話はそれからだ。」それから、僕は友人がボランティア志望などで来仙すると、まず最初に津波で壊滅した沿岸部被災地を見せることにした。TVなどで見慣れたはずの津波被災地を肉眼でみると、その印象はぜんぜん違う。瓦礫の山や、流された車などが、圧倒的な質量をもって迫ってくる。そして、そこに人々の「生活」が存在していたことや、無数の生と死があったことが、いやおうなく想起される。大抵のひとはカメラのシャッターすら切ることが出来ない。そして、考える。この現実を前にして、自分は何が出来るのか?と。答えは風に吹かれているのかもしれないが、僕の頭のなかでは、ディランが歌っている。♪The time they are a changing,

去る5月1日、仙台で2つの反原発デモがあった。ひとつはプレカリアート系、もうひとつは新左翼系の主催するデモで、僕は2つとも参加することにした。どちらも200名ほどの小規模なデモだったが、若い世代が多く士気は高かった。何よりも街頭の人達の反応が違っていた。デモ隊は拍手で迎えられ、デモに飛び入りする市民も現れた。Fukushimaの出来事により原子力ルネサンスは終止符をうち、世界のひとびとは原発に頼ることのない新たな生き方をせまられている。世界中の反原発・脱原発の世論は、この先、燎原の火のごとく広がっていくだろう。♪The time they are a changing

未曾有の大災害を前にして、「自分たちになにができるのか?」。われわれ宮精連は何度も話し合いの機会を持った。その結果、事務所を借りて、最低2年間の長期にわたる電話相談を始めることにした。題して、心の「ピアサポート」相談電話。相談者の話を傾聴することを主に、適切な精神保健福祉情報を提供し、相談者の人権を守ることや、彼らのエンパワメントなどを目指す。今ある精神保健福祉体制を補完するのではなく、それを乗り越える相談業務を展開しようと意気込んでいる。相談電話は5月31日から開始予定。ただいま、皆さんのカンパを募集している。趣旨に賛同していただける方は、ぜひ協力をお願いしたい。

相談電話番号 022-308-6067

カンパ振込先 七十七銀行長町支店 (普)251 5782074

心の「ピアサポート」相談電話 代表 山本 潔

 

JDFみやぎ支援センター滞在報告

・運営委員 関口明彦

日本障害フォーラム(JDF)では3月11日の東日本大震災を受けて19日に対策本部を設置しました。対策本部には13の加盟団体の代表が入り、私(関口)も全国「精神病」者集団(JNGMDP)として代表者会議に出ているので、本部に入ったことになります。本部は3月30日(水)にまずJDFみやぎ支援センターを開所させました。4月2日(土)にJNGMDPのオフ会で桜の花見をした時に、誰かを派遣する必要があるのでは?との話が出て、私が行くことにしました。とはいえ、自分の薬の準備などもあり、出発は翌週の6日(水)になりました。寝袋、PC 持参です。宮城精神障害者団体連絡会(宮精連)議長の山本さんに連絡を入れたところ、煙草を吸うなら持ってこい、売ってないぞ、との事。

朝早くにバスが仙台駅に着くと、山本さんが車で迎えてくれました。JDFセンターに行くのは山本さんも始めてで、少し迷いながらも到着しましたが、途中で津波に被災した地区も見せていただき、その凄まじさに言葉もなく写真を撮ることも出来ません。13日(水)に帰京するまでに、3日間被災地を回り、主な2つの会議に出席。

JNGMDPは山本氏を被災地担当運営委員に迎えて宮精連に協力して被災地支援を行います。被災3県の精神の当事者に向けた情報拠点を仙台に確立し、ピア相談、当事者の薬調達のコーディネートをはじめ、現地主体での活動を後方支援することにしています。山本氏も入った運営委員会議を2回開きました。現地でもゆめ風基金から取り敢えずの拠出金を得る事が出来ました。最低限の額ですが。

 

・運営委員 桐原尚之

私は、4月10日から23日(21日、院内集会参加のため東京にいましたが)まで、JDFみやぎ支援センターに滞在しました。

私は、最初、白石市にいきました。そこは、赤紙(人が住めないくらいの家の状態)100軒を超え、黄紙(人は住めるが家が壊れている状態)が約300軒あったといいます。しかし、福祉避難所に避難して来た人の延べ数が0名であり、津波の影響をうけなかったことから、大きな被害はなかったといいます。帰りに、亘理町を通って帰りました。そこは、宮城県内で壊滅状態とされる地区で、役場が機能不全、津波による被害も甚大であったところです。まず、私の目に飛び込んできたのは、道路の脇に直径3メートルくらいのボードが落ちている光景でした。海岸から4キロは、離れていると思います。そこから流れてきたわけです。そして、よく見ると幾つかの建造物の一部が崩れかかっていて、地震の凄まじさを理解しました。しかし、私が理解したものは、俗に「問題なし」とされるものでしかありませんでした。次の瞬間、車で道路を直進していくと、いきなり一面瓦礫の山となりました。一瞬で違うところに来てしまったような、そんな感じでした。あとで確認したら、沿岸部は、瓦礫すらない街が跡形もなく消えた状態、沿岸部でも陸に近い所は、人が住めないくらいの瓦礫の山、瓦礫の境目から内陸にかけては床上浸水したため営業できない店舗が群れを組んだ状態、そして、本当の内陸部は、地震の影響で建造物にひびがある程度で済んだ、という感じでした。津波で流された、大型ダンプは車体が変形し、ほとんどの民家は土台だけ残してどこかに流された模様、漁船と車と民家の一部が一面に落ちている光景には、絶句しましたが、それ以上に、「これをどうするのだろう」という気分になりました。

その後、12日から20日にかけて、名取市閖上、仙台市若林区荒浜、塩釜、七ヶ浜、東松島、牡鹿、鮎川、女川、雄勝、石巻と行き、改めて、この一面瓦礫の山の光景が、茨城県から青森県まであるのかと思わされました。とくに、雄勝は、酷い状態でした。役場の建物が津波の被害を受け、役所の職員も流され、臨時のプレハブ役場での営業も淋しい雰囲気がありました。一面瓦礫で町の8割は流されたような雰囲気でした。自衛隊が遺体を探すために棒で瓦礫をつつきながら歩き、瓦礫撤去用の重機も瓦礫をもちあげられず、一回の動作に5分以上を費やしていました。ここは、津波で幹線道路の橋が流されたため、別の道路を削って作ってから自衛隊や行政の手が入ったらしいです。

私は、被災した障害のある仲間5名と接触をもつことができました。皆、一様に差別と排除に悩んでいました。避難所から排除され、それが正当化されることに恐れていたのです。ある地区では、保健師が支援につなぐと称して、避難所から障害者を排除していたこともわかりました。そして、その悩みを一人で抱えなければ排除されることも、外部に相談できないでいることも、はっきりしました。こうした場合、どうすればいいのか、わかりません。

 

・運営委員 佐々井 薫

22日から28日までJDFみやぎ支援センターに行って来ました。

初日に仙台の山本さんに車で被災地を案内していただきましたが、想像以上の被災状況に言葉が出ませんでした。

地震被害も、さることながら津波被害の被災地には町や村が地震前まで存在し人が暮らしていたことがイメージ出来ないほど。壊滅と言うより、消失と言う言葉が当てはまるように感じました。山本さんに避難所が見たいと言った後で大変失礼なことを言ってしまったと思いました。

被災者の方々は過酷な避難所生活をしている中で、障害のある人たちは、さらに過酷な避難所生活を強いられていることと思います。みやぎ支援センターの避難所訪問に動向させていただく中で感じたことは行政の閉鎖的対応があるということです。ほとんどの避難所では「うちには、障害のある方はいません。何の問題もありません」と門前ばらいをされることが多かったです。でも何度か通ううちに避難所生活をしている方から以前、いたけど問題があって何処かへ移って行ったよ、という話が聞けました。門前ばらいをされた避難所の外で偶然、障害のある方と出会い話を聞かせていただくこともありました。

色々な団体が入って来ていて、迷惑をかけるようなことも、たくさんあったということも聞きましたが、行政自体が被災しているので手の届かないことがあるのも当然です。一部の地区では手を貸してほしいとの依頼もあり保健師さんなどとも連携を取りながら継続支援をしていることもあります。

行政では、手が届かない障害のある方の支援に民間団体が、どう関わっていくかが今後の課題だと思います。と同時に被災地の状況も変わってきていることを見極めて、新たなニーズも出ていることも見逃せません。

今、倉敷の自宅に帰っていますが、22日の朝には被災地にいて、その日の午後には新宿西口のネオンと人ごみの中にいて、翌朝には倉敷に帰って。頭が混乱しています。



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