ごあいさつ
もはや気候不順が常というか気候不順という言葉さえ意味ないような気候が続いておりますが皆様いかがお過ごしでしょう。この春の季節は毎年苦しい、体調が崩れるという方が多いようですがじっと我慢の毎日でしょうか。
山本が昨年11月から入院、さらに治療継続ということで、申し訳ないのですが、お年賀状あるいはお手紙などへの御返事が遅れております。今後どのように運営していくかは交流会他で議論を重ねていきたいと存じます。障害者権利条約委員会の日本政府報告書に対する審査は今年の夏に予定されています。わたしたち自身のパラレルレポートも提出したいと考えています。
この議論に参加したいという方はインターネットをお使いになっていることが条件ですが、山本までご連絡を。条約において強制入院を禁止している14条についてのガイドラインについては年に二度の委員会の報告書に付録として掲載され、国連公用語に翻訳されています。世界の仲間の働きかけの成果でもあります。仲間とともに条約の完全履行に向け励みたい、と考えます。内向きの運動を外から批判していくことも必要かもしれません。
2002年以来取り組んできた障害者権利条約は今後も一般的意見他への働きかけが必要です。
今号のニュースには旧優生保護法についての署名を同封しました。仙台高裁及び国あての請願署名は6月30日が締め切りで、インターネットをお使いの方はサイトからも署名できます。札幌地裁向け署名は7月31日締切です。それぞれに送付先が記されています。署名が集まったら、そちらに直接お送りいただけますようお願いいたします。ぜひ多くの方のご協力を
精神障害者権利主張センター・絆が生まれるまでに生じた問題
(2020年2月9日)
市川市 富岡太郎(53)
なんとなく「全国『精神病』者集団」で検索したら「分裂」と題してある人のブログの文章が出てきた。そこには2018年の分裂には、何か「深い問題」が潜んでいて、それを「議論」すべきであると書かれていた。私は2016年から2019年までこの分裂期に関わったものとして会員のみなさんが「深い問題」に思い巡らせる材料になればと筆を執った。
問題点①
私たちは何者か。精神障害者とは何者か。――この点については「近代社会」の成り立ちからその理性主義や物質主義さらに脳の中で全てを決する「現象学的方法論」、学歴社会、母子愛着の理論(アタッチメント)から「社会構築主義(差別は作られた線引きであるという説)」まで、色々論じなければならない。だが「議論の手前に悩んでいる人間がいる」という意識ピープルファーストの意識で具体的に切りこんでいくアプローチを、20世紀後半の「全国『精神病』者集団」は採用していたようである。要するに社会から差別され虐待されている仲間が目の前にいるのだから、高尚な哲学理論を云々することは後回しにするという現場感覚があり、ゆえに「私たちは何者か」には答えない。答えようとすると近代合理主義のパラダイムに回収されてしまい、学者の権威の前に圧力が正当化されてゆくおかしなことになる。「ミイラ取りがミイラになる」。だから「私たちは人間である」という意識で十分だろう。
問題点②
集団とは何か。組織化されていない車座の集団はいかにして可能か。――これは代表者をおかず規約も作らなかった20世紀後半の「全国『精神病』者集団」の根本に関わる問題であった。いわゆる学校や会社といった、軍隊的組織のあり方に同調できず、はみ出してしまった私達の「たまり場」として、かつて存在した「全国『精神病』者集団」は、ゆえにお互いの信頼関係を保ち「たまり場」で「くるまざ」になって話し合って方針を決定する平等主義に貫かれていたという。21世紀に入り、障害者権利条約の関係でやむをえず、「総会」を開き「運営委員」をおいたようであるが、もともとはそのような組織形態に馴染めない人々の集団を特色としていたと思われる。ゆえに、「わたしたちは仲間である」で十分だったのだ。
徐々に国際的にも国内的にも評価を高めてくるにつれ、人権団体としてその名を確立するにつれて、2018年の分裂の引き金を引いてしまうことになったように思う。
問題点③
社会変革は可能か。社会モデルはつまりバリアフリーは本当に可能なのか。――共生社会は現在の社会システムが全く変わらず精神障害者が「社会性を高めて」実現されるというおかしな「強制」が求められるとき全体主義社会と変わらない。それだから社会のほうが変容することで、わたしたち精神病者も変容していくという相互作用が求められる。現在の社会のあり方がどんどん変わってゆくにつれ、患者さんの症状と言われるものもどんどん変わっていく、そのような変革は可能なのだろうか。例えば偏差値60以上の人たちに有利な学歴社会が相対化され、格差社会が何らかの変革で克服されて貧困がなくなり、多様性が尊重され自殺・変死がゼロになり、少子化の原因である無縁社会がなくなって人々が繋がりを第一にする社会。それは今日入院という「人間狩り」を地域が認めない社会、インクルーシブな社会を目指す。だが21世紀になり不寛容な社会が生じてしまった。ネット社会は歩行者を置き去りにする車社会のように、マイノリティを置き去りにするようだ。
※
最後に私見を述べて閉じたいと思う。
20世紀後半の「全国『精神病』者集団」の魂を保っているのは、おそらく「精神障害者権利主張センター・絆」である。精神保健福祉法廃絶、障害者権利条約の徹底を訴えているからである。しかしもう一つのグループがなんの意義もなく分裂していったとは、私には思えない。国内に入れば国内に従えというように、我が国の高い道徳性やそこからくる「世間が許さない」厳しい倫理観の中で、まさか「わがままを許すことが人権である」とは彼らは言えなかった真面目さがあったのだろう。しかしこのことは「社会を構成する一人ひとりがどう変容しマイノリティに向き合うか」の問題であるから、健常者側の抱える価値観のクォリティの問題である。万人が生きやすい社会は、老人になりマイノリティになっても安心できる平和な社会。それを願う。(完)
思いをとげて 2020年2月9日
山本眞理
昨年10月に肺がんが見つかり、なんとステージⅣ、11月から抗がん剤の集中治療4クール1月末に終了。今後は免疫チェックポイント阻害剤を3週間に1回。私自身の免疫機能でがんを抑え続けていくと言う方針。このままがん細胞が押さえ込まれ消えていくか、ある時反乱を起こして、急に具合が悪くなり、と言うことになるか。1年後か5年後かはたまた、と言うことですから、なんだかこの世を半分隠居、現役の皆様お疲れ様という気分ですねえ。でも一つだけ気になることが
全国「精神病」者集団の名前が泥まみれになり、先達の思いが踏みにじられていくのを放置するわけにはいかない。デカパンの、おさみのそして大野萌子の全国「精神病」者集団が泥まみれになっていくこと私は耐えられない。
2018年3月30日の会議により合意文書が、彼等3名との間で交わされている。2018年5月1日より、全国「精神病」者集団が分かれた二つの団体はそれぞれ全国「精神病」者集団という組織名を使わない、と言う合意である。この合意は彼等に破られたままでいまに至っている。すでに彼等は山本を名誉毀損で訴えると主張しているので、話し合いの余地はないと判断し、この合意文書の履行を法的に彼等に命じられる措置を取ろうと考えている。
私山本以外、絆の仲間もなんら興味のないこと、であろうが、私はこの思いをとげてから、と考えている。代理人弁護士を見つけ手続き開始しましょう。
思えば数年前、日本病院地域精神医学会理事に、関口氏、桐原氏2人が全国「精神病」者集団の肩書き付きでなったと言う衝撃、さらに地域のサービスプロバイダの運営母体の理事にも関口氏は全国「精神病」者集団の肩書でなっていた。そして記者会見まで開いて反対した、成年後見制度利用促進の会議に参加を名乗り出るなどなど一切会員に相談することなく、全国「精神病」者集団の課題別共闘の原則は踏みにじられた。もっとも問題にするのは山本ぐらいで、ほかの会員にとっては興味ないことだったかもしれないが。
いずれにせよ、彼等に全国「精神病」者集団の名称を使わせないためにあらゆる手段をとっていくことを宣言する。