2018年8月 精神障害者権利主張センター・絆ニュース 号外第一号 抜粋

ごあいさつ

災害だと気象庁が発表するほどの酷暑が続いております。各地でも地震さらに洪水と災害に見舞われている仲間も多いことと案じております。皆様いかがお過ごしでしょうか。

先にお知らせしたように新たな名称のもとニュースをお届けいたします。障害者三種郵便が取れるまでは普通郵便でまず2回発送する必要があり、この形式でニュースをお届けします。池原さんへのお手紙に従って名簿削除しておりますが、誤って届いた場合はお知らせください。またニュースはいつでもお断りできますので、ご遠慮無く。

4月にニュースを出したきりで大変ニュース発行が遅れてしまい、多くのお問い合わせをいただき恐縮しております。ご投稿もいただきながら今回も掲載できず、三種をいつものページ数で出せるようになってから、掲載させていただきたいと存じます。

今回切り抜きだけのニュースとなり大変申し訳ありませんが、酷暑と諸々の闘争集会続きの中で仲間も疲弊しています。ということでお許しくださるようお願いいたします。

情報等はインターネットをお使いの方は精神障害者権利主張センター・絆のサイトの日々更新して掲載しておりますので、そちらをご覧ください。また会員のメーリングリストや会員交流会にご参加いただけますと、今後の進め方なども皆様から容易にご意見聴取、あるいはいろいろな会員からの情報も集まります。もちろんお手紙は大歓迎です。お返事遅れ気味になるかもしれませんが。メーリングリストご参加ご希望の方は山本までご連絡を。ニュース発送のお手伝いもしていただけると助かります。あるいは手書き原稿の電子化なども、みなさまのご協力あってニュース発行が継続できます。

私は訴えるー精神障害を理由にした不本意な不妊手術について

片方司(かたがたつかさ)

■はじめに
私は、2003年に、精神障害を理由に精管結紮された者です。1996年には、優生保護法が母体保護法に改定され、障害を理由とする不妊手術を認める条項はなくなっていたのに、法律の枠外で手術されたのです。

■私の体験
私の体験を話したいと思います。
私は、昭和25年、岩手県北上市に生まれました。
高校時代、いじめと失恋で統合失調症になり、精神病院に入院しました。8カ月後退院して、高校に復学して卒業し、大学に入学しましたが、再発して3回入退院しました。
22才の頃、安定期に入り、岩手医大を退院しました。その後、数々の職業を経験して、結局、母が経営している酒店を手伝いました。
32才の時、自分のマイホームを建てました。45才の時、Y子さんという人と結婚したいと思いましたが、兄夫婦に反対され「籍は入れるな。子どもは作るな」と言われ、しぶしぶ内縁関係として同居しました。48才の頃、妊娠しましたが1週間で流産しました。流産後、兄夫婦に強く勧められ、Y子さんは県立病院の産婦人科に入院して卵管結紮の手術を受けました。Y子さんも私も、望んだわけではありません。
2002年5月、私は体調をくずし、国立花巻病院に約2年間入院しました。2003年、兄夫婦と、当時の担当の医師とケースワーカーに、パイプカットをするようにと言われました。私は、いやだったのですが、パイプカットしないと一生入院させておくと言われました。
2003年10月15日、岩手医大に連れられて行って、11月26日午後、手術されました。手術は、約30分でした。12月1日に抜糸、12月5日に、医大から花巻病院に戻りました。私は、子どもを失った気分でした。残念だった。
障害者は、結婚も、子どもをつくることもだめなものでしょうか。

■終わりに
私のように、法律の枠外で手術された人も、ぜひ、名乗り出て下さい。よろしくお願いします。

(2018年7月28日「優生保護法に私たちはどう向き合うのか?―謝罪・補償・調査検証を! ―」集会での片方さんのアピールです。ご本人の許可を得て掲載させていただきました。同様のご経験のある方は多いのではと存じます。ご連絡いただければ幸いです。片方さんを孤立させず、仲間の力でなんとか問題化したいと存じます。ちなみに花巻は心神喪失者等医療観察法病棟のあるところです。 山本)

2018年8月6日 強制不妊手術東京訴訟第1回期日 北さんの原告意見陳述

平成30年8月6日

(第1回口頭弁論期日)

意見陳述

原告(閲覧制限)

まずは本日、このような場を設けていただき、ありがとうございます。傍聴席には、 この裁判を温かく見守り続けてくれている皆様にお集りいただき、とても心強い気持ちでこの場に立っています。

5月17日にこの裁判を起こしてから2か月以上が経過しました。優生保護法の問題は、マスコミに度々取り上げられ、被害を訴える声も少しずつ聞かれるようになりました。先日は、北海道と熊本でも被害者が裁判を起こしました。

この裁判が、全国の皆さんに少しでも勇気を与えて欲しいと願ってやみません。

この裁判に向けた私の思いは、訴状の冒頭に「原告の思い」として書いていただき、その後も機会があればお話をしてきたとおりです。ですが、今日のこの第1回裁判期日には特別な思いがあります。是非、裁判官や国の代理人の皆さん、そして傍聴席の皆さんの前で、改めて、私の思いをお話させていただきたいと思います。

私は中学生の時、子どもをもうけることが出来なくなる手術を受けさせられました。私の体には今も、生々しい手術の痕がくっきりと残っています。この出来事は何十年もの間、家族の中で触れてはいけないタブーとなっていました。

私自身、 40年連れ添った妻にさえ、彼女が亡くなる直前まで手術のことを打ち明けることが出来ず、申し訳なく思っています。また、今回の裁判に協力してくれている私の姉は、当時高校生でしたが、私の手術のことは誰にも言ってはいけないと口止めをされ、 60年以上もの間、一人で秘密を抱えて苦しんできました。姉も辛かったと思います。私も姉も、今回の裁判がきっかけで、お互いが長年悩み苦しみ続けてきたことを初めて知り、お互いの思いをようやく話せました。

自分の意思に反して子どもをもうけることの出来ない身体にさせられてしまった私や、その苦しみを共有している家族が、 この話題に触れることもなく、まるで手術がなかったかのように生活してきたことは、今から考えれば本当におかしな話です。しかし、今この瞬間も、手術を受けた事実を誰にも言えずひっそりと生活している被害者が、全国に沢山いるのです。

声をあげることなく一人で傷ついている全国の被害者に、救いの道を開きたい、というのが、私がこの裁判に託した最大の思いです。優生保護法が制定されたのは今から約70年も前です。この法律によって不妊手術を受けさせられた被害者の中には、声をあげることなく亡くなられた方も大勢いることでしょう。高齢で、病気と闘っている方も多いと思います。

その方々を救うためには、一刻も早く、国に対応をとってもらう必要があります。それにもかかわらず、国はこの裁判で、 自分の非を認めないと反論しているようです。とても残念です。ご自分の家族が、愛する人が、 このような非道な不妊手術を受けさせられたとしても、あなたたちは同じように反論するのでしょうか。

なぜ、 このような手術を行う必要があったのか、国に問いたい。そして、私の人生を返して欲しい。

裁判官の皆様には、まず、個人の意思に反して生殖機能を奪うという、人を人とも思わないこの法律が、いかに人々を傷つけてきたのかをご理解いただきたいです。そして、この裁判を、全国に埋もれている多くの被害者に救いの手を差し伸べるような、希望のある裁判にしていただきたいと思います。

以上

(素晴らしい意見陳述でした。許可を得て掲載いたします。原告のところに閲覧制限とあるのは、北さんは仮名で実名を公開していないため原告名の閲覧が制限されているという意味で、本文は公開可能です。当日は原告代理人の意見陳述もわかりやすい言葉を選んでなされ、傍聴席向けにスライドで要約が映されました。裁判長も誰にでもある傍聴の権利を保障していきたい、と強調してくれました。憲法13条、及び14条違反であるが、法制定当時から違憲であり、その後の被害者放置もまた違憲であると主張しています。
裁判後の集会では熊本の裁判の原告代理人も参加しており、熊本の裁判ではこれらに加えて憲法36条の残虐な刑罰の禁止にもふれるので違憲と付け加えていると報告されました。強制医療は拷問虐待に当たるという私たち及び障害者権利条約委員会と障害者の権利特別報告者の主張が反映していると考えます。いつの日か、精神保健福祉法はそもそも制定時から違憲、そして拷問虐待の体制であるという判決が下りる日を待ち望みます。私の生きているうちには無理でしょうが。 山本)

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